違反者講習なり(;´Д`A
しかも二年前の托鉢の帰りに捕まったなりよ。
いいことした後で、こんなことに・・・
恥ずかしい!
人にはとても言えんわ、そう思った。
でもあの托鉢は僕にとって偽善だったってわかったね。
なぜ偽善なのか。
自分が満たされてないから。
自分に心の余裕がないから。
だからゆとりある運転ができなかったんだよな〜、僕は。
くそ〜、満たされた自分から溢れ出した幸せが他人に広がったとはいえないな〜ってわかってしまった。
「この偽善者ぶりをさらけ出すのだ」という声に従い、投稿ポチッ(笑)
全ては自分を知るためのメッセージ☆
この投稿に素敵なコメントをいただいたので、残しておきたいと思う。
(Iさん)
托鉢ってなんのためにするのでしょう?
乞食(こつじき)の修行?
偽善とか悩む必要があったのですか?
(僕)
おお、また素敵なコメントありがとうございます。
偽善と悩んでいないのです(^_−)−☆
自分に嘘があったことが見つかった。
つじつまが合わない自分を見つけた。
それは実は嬉しいことだったりします(≧∇≦)
この時の托鉢は、「人のために」という目的で行ったものです。
(Iさん)
山地さん、考えがまとまっていないまま質問してしまいました。
唐突で申し訳ありませんでした。
人のため の托鉢だったのですね(^^)
(僕)
いえいえ。
この質問のおかげで、またまた深まりました(^○^)
「人のために」という言葉は、時に自分を見失わせるものですので。
それを僕は感じれたということなのでしょうね。
(Iさん)
私、托鉢は労働や所有を禁じられているお坊さんが生きていくに必要な糧を得るために
人々に乞食をする修行というか、必要な行為だと思っていたので、何が偽善なのかな〜⁇と、思ってしまいましたm(_ _)m
(僕)
はい、ほんとですよね☆
ただ我々大乗の僧侶は、労働も所有もし、妻帯も、場合によると飲酒もしています。
世俗を離れず、世俗の中からの覚醒アプローチになりますので、多分前提からして異なるのでしょうね(^_−)−☆
(Iさん)
私、時々「僧侶かくあるべし」「人間、こうあるべき」みたいな、全く自分の事を省み無いこだわりを他人に意見してしまうことがあります。
こだわる、執着の心に囚われないように気をつけていきたいと思います(^^)
(僕)
おお!「べき」を見つけましたか。
僕は今、この「べき」を見つけて、それを解きほぐしていくことがけっこう楽しかったりします。
例えばこの場合だと、まずは、
「僧侶はかくあらなくてもいい」
「人間、こうあらなくてもいい」
って言ってみます(^_−)−☆
山地 弘純
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